理性は知性と教訓の賜物
理性とは、利己的欲望、怒り、怠惰などを律する心です。人類は高い知性を持ち、それは「理性」を生み出しました。
そして理性は、人類が学んだ「より良い結果」を生む教訓を教育として語り継いできた成果でもあります。人類は、以下のようなことを経験として学びました。
- 相手を倒すより仲良くする方がより良い結果を生む
- 自分の利益だけを追求するより、相手と利益を分かち合う方がより良い結果を生む
このような経験は、幾世代を通して積み重ねられ、教訓として次世代に語り継がれました。
- 人を殺してはいけないこと
- 戦争をすべきでないこと
- 他者の権利を尊重すること
理性的な行動の代表として挙げられるこれらは、人類があまたの世代を通じて学んできた教訓の賜物です。
理性の根底にあるもの
それでは人類は、何のために利己的欲望、怒り、怠惰などを律しているのでしょうか。なぜ理性で律する必要があるのでしょうか。
それは「利他」のためです。
もし他人がどうでもよければ、自分を律する必要はありません。仮に他者の権利・感情・存在を一切顧みる必要がなければ、理性、すなわち利己的欲望・怒り・怠惰などを律する心は、ほぼ動機を失ってしまいます。
しかし人類は本能的に、相手が喜ぶと自分もうれしくなります。これは単なる脳の報酬系の作用かも知れませんが、人類が生まれながら持つ愛すべき美点です。
理性は「より良い結果を生む教訓を語り継いできたもの」と前述しましたが、この「より良い結果」とは何でしょうか。もちろん相手に害を与えて自分だけ大きな利を得た、といったことではありません。良い結果とは、「相手が喜び、それで自分も喜びを得られた」ことに他なりません。
人が理性的であろうとすることの根底には、他者の喜ぶところを見たい、他者の悲しむところを見たくない、という「利他」への欲求があります。他者を害して自分の欲を満たすことは良くないことだと、多くの人は自然に感じると思います。それがなぜ良くないことだと感じるのか、自分の心を顧みればそれが「利他への欲求」からきていることがきっと分かるはずです。
結局のところ「理性的」とは、「利己的欲望や怒りや怠惰を律し、利他を優先させる」ことだと言えると思います。
※ほとんどの理性的行動は「利他的」と言えると思っていますが、利他欲求に基づかない理性もあるかもしれません。ここまで書いてきたことに反してしまいますが、それは自己研鑽といった「自分をより良くする」ために自分を律するものです。
例えば、怠け心を律して「勉強した方が良い」と考えるのは、理性の力です。しかしこれは、利己的動機とも取れます。そもそも自己研鑽は何のために行うのか、利己のためなのか利他のためか、きれいに割り切れるものではないかも知れません。
こういった例への理解は、私自身まだ整理ができていません。(これは「向上心とは欲望か」という別の問題とも絡んできます。しかし、ここで持ち出すと議論が複雑になりすぎ、論旨がずれかねません。)
この議論の趣旨「強欲に抗する力として理性」という観点では、大きな齟齬はないと思いますので、ここでは「理性は利他に基づいている」として、話を進めます。
理性の生得的部分と学習
理性は、その原動力となる生得的な利他欲求と、学習により得た教訓が積み重なったものです。よって個々における理性の強さには、生得的な利他欲求の強さが無関係ではないと思います。しかし理性は、教育によって体得した教訓に、より強く依存していると思います。

本能としての利他欲求は、他者の喜ぶところを見たい、他者の悲しむところを見たくない、といった素朴なものです。しかし、殺人・紛争・人権侵害などが理性的に許されないと感じるのは、学んだ教訓があるからです。また「他者」の範囲も、教育によって、基本的な家族・仲間から、隣人・全国民・全人類へと広がってゆきます。
理性を育む上では、教育の重要性が高いと考えています。
強欲と対峙する理性の力
人類は、地球生命の中でも最も強い欲望を持つ種族です。また人類の欲望は多岐に渡ります。そして、その欲望を実現させる強い力を持っています。人類の安全、利便、安楽、飽食、享楽などへの欲求とその実現の営みは、とどまるところを知りません。

人類の強欲は、一定の繁栄をもたらしました。しかしその強欲は、人類の拠りどころである地球を、自ら生存しにくい状態、環境に変えていってしまいました。
ですがようやく人類は、地球の状態を変えてしまうことが、自らの存続を脅かすことに気づき始めました。これまでのように欲望をその赴くままに実現し続けることは、さらなる生存環境の悪化という代償を伴います。
理性は、強欲と対峙する力になります。
しかし人類の理性は、利己的な欲望と激しくせめぎ合っています。現状、人類の総体としての理性は、脆弱と言わざるを得ません。人類の強欲は、人類がこれまで手に入れてきた安全、利便、安楽、飽食、享楽を手放すことができません。いまの人類の理性は、強欲に打ち勝てず、営みの是正に足踏みをしています。

人類は、その強欲を適切に制御できる強い「理性」を獲得する必要があります。いずれは人類が、その強欲を凌駕する理性を手に入れる日が来るかもしれません。しかし、それは人類の存続にとって致命的な環境変化が生じる前である必要があります。
次の時代を生きる子供たちに、いまの大人が持ち得なかった高い理性を育むことが、現在を生きる人類に求められています。
理性的に生きる
「理性」が「利己的欲望、怒り、怠惰などを律する心」ということは、比較的しっくりときます。しかし「理性的に生きる」と言われても、スッと入ってこない感じがします。「理性的に生きる」とは、どうすることなのでしょうか。
理性的と言われる振る舞いには、
- 人を殺さない
- 戦争をしない
- 他者の権利を尊重する
といった基本的かつ重いものから、
- 自己の利益のために他者を害しない
- 困難時には他者を助ける
- 損得より大事なものがある
といった生きる上での身近なことまで、様々なものがあります。
理性を実践に導く教訓は、いろいろあると思います。ですがその根底をたどると、「理性的」とは「利己的欲望や怒りや怠惰を律し、利他を優先させる」ことだと前述しました。
「理性的」な行動が「利他を優先させる」振る舞いだとすれば、いくらか手に負えるようになります。
【利他的な行動】
- 他者に迷惑をかけない
- 他者を害しない
- 他者を尊重する
- 他者のために尽くす
これらを実践するためには、おのずと自身の欲望(また怒り,怠惰)を抑えるという要素がついて回ります。
【理性的な行動】
- 自身の欲望(怒り,怠惰)を抑えて、他者に迷惑をかけない
- 自身の欲望(怒り,怠惰)を抑えて、他者を害しない
- 自身の欲望(怒り,怠惰)を抑えて、他者を尊重する
- 自身の欲望(怒り,怠惰)を抑えて、他者のために尽くす
自身のありようを律して、自分と接するすべての人を利するよう振る舞う姿も理性的と言えます。
【理性的なありよう】
- 正直である
- 誠実である
- 清廉である
- 高潔である
そして人は、これを「善」や「正義」であると感じ、こういった姿を美しいと感じます。理性的に生きることは、「善良に生きる」「美しく生きる」ことでもあります。
正義と理性
「正義」というと、なにを思い浮かべるでしょう。「正義感」とか「正義を守る」「社会的正義」などの言葉が出てきます。
前述のような理性的な生き方を、人は「正義」に沿った生き方であると感じます。また理性的でない、すなわち「自身の欲望(怒り,怠惰)のために、他者を害する」行いを見たとき、人はそれを「不正義」だと感じます。「正義感」という言葉には、自分が理性的であることに加え、「不正義である」「理性的でない」他者の行いをも憎み、防ぎ、正す、といった意味が含まれますね。
「正義を貫く生き方」という言葉もやはりちょっとピンときませんが、「利他」「滅私」という「理性的」な振る舞いが、すなわち正義に沿った振る舞いであると言えると思います。
そして大事なことは、子供たちは「正義の味方」、「正義を守る」ことが大好きだということです。子供には「道徳的であれ」「理性的であれ」と言うより、「正義の味方であれ」と言った方がきっと響きます。