環境変化を止められない人類
人類は、地球の環境を変化させてきました。そして人類は、その変化が自らの存亡に関わるものでもあることにようやく気づき始めました。人類の営みと地球の関係が本当の意味で分かりはじめたのは、これまで積み上げてきた学問・研究の賜物です。
人類が誕生したとき、人類が生存・存続できる確かな環境がありました。しかし、人類は自らの手で、その知性で得た強い力で、自らの生存しやすい環境を損ねつづけています。そして人類は、自らがもたらした環境変化の収拾すら、自身でつけることができていません。
自ら損ねた環境を自ら修復することすらできない人類は、自らの誕生を促し育んだ地球の環境を、変えてしまうべきではありません。
それは多くの人類が気づいていることだと思います。
しかし、人類はそのことを知ってなお、十分に営みの方向を正せていません。それはなぜなのでしょう?
人類の欲望は強く、理性は弱い
一部の人々は、人類を生み育んだ地球の状態を変化させてしまうことが、人類の存亡に関わることに気づいています。そして声を挙げている人々も、たくさんいます。
しかし現状、環境の変化は、たぶん止まりません。人類がいま世界政治の場で打ち出している、意欲的と言われる対策があります。このすべてを完遂したとしても、環境の変化を止めるためには、まったく不十分です。さらにこれらの対策の中には、国家間の損得にまつわる思惑も垣間見られ、必ずしも有効とは思えないものまで含まれています。
※例えば、電気自動車の普及が、欧州を中心に進められています。しかし、電気自動車に必要なバッテリーの生産には、大量の電気が必要です。この電気の生産に伴う二酸化炭素の排出量は、現状、膨大です。現時点では、電気自動車を一台生産する際に排出される二酸化炭素は、ガソリン自動車のそれを大きく上回ります。
一台の自動車の、生産から使用、廃棄までのライフサイクルにおいて、電気自動車がガソリン自動車の二酸化炭素排出量を下回る分岐点は、現状、走行距離が10万キロ弱から数十万キロ(バッテリー搭載量が多いほど、長くなる)の時点と言われています。
未来の電力クリーンエネルギー化を見越して、と言いつつ、二酸化炭素の大気中濃度を年々積み増すとりくみは、それが他意なく純粋に気候変動の阻止を目指したものであるとすれば、お粗末と言わざるをえません。
これまでの人類は、環境をすでに変化させてしまいました。その変化は、すでに許容範囲を超え、実害が人類に降りかかっている状況です。
人類がその危うい状況を知ってなお、十分に営みの方向を正せないのはなぜでしょうか。
それは、人間の強い欲望のためです。
強欲はそれ自体、人類を特徴づける基本要素です。多くの人類は、欲望を満たすための営みと決別できないでしょう。一度手に入れた安全、利便、安楽、飽食、享楽を手放すことは、とても難しいことです。そこに人類の未来の存続がかかっているとしても、今を生きる多くの人類は、自身の目の前にある欲望の実現を優先してしまうでしょう。
個体としての自分が死ねば、後のことは関係ないといった思想もあります。人類の子孫をつなぐことより個体の自己実現を優先する、といった人々もあらわれています。
現在の人類の総体においては、欲望の実現は、人類存続に優先されています。安全、利便、安楽、飽食、享楽などの欲望が満たされた上で、出来る範囲で環境保全の努力をしようというスタンスが大勢です。
こういった生命種が、今後長く存続することができるのでしょうか?
人類は、その強欲と対峙できる力を持っているはずです。それは“理性”の力。
しかし現状の人類総体としての理性は、その強欲に比べてとても脆弱です。
いまを生きる人類の理性は未熟です。本当はどうすべきか薄々分かっていても、欲望に反する選択を下すことは、いまの人類には難しいでしょう。
理性がどこまでの欲望を超えられるか、理性の体得レベルには、個人差があります。殺人、人権侵害、紛争すら、人類の営みからまだ消えていません。ましてや「人類の未来」のために、個体の欲望を抑え、現実に行動できる人は多くはないでしょう。
また一度個々に形成された大人の理性は、柔軟に変えてゆくことも困難です。もし変わることがあるとすれば、それはきっと相応の犠牲を払った上での教訓によるものでしょう。
もし人類が今以上の理性を持ちえない存在であれば、人類の生命種としての先行きは厳しいと言わざるを得ません。
人類の希望は子供たちに
一部の個体だけが高い理性を持っても、人類全体の営みは変えられません。人類が存続するためには、自らの強欲に打ち勝てる強い理性を、人類総体として持つことが必要だと考えています。人類全体の理性発展にこそ、人類存続の活路があります。
希望は子供たちにあります。

子供たち、未来の世代には、可能性があります。人類総体として、より高い理性を持つ世代となる可能性です。
これまでも人類はその歩みの中で、殺人、紛争、人権侵害といったものが、理性によってある程度、抑制できることを証明してきました。そしていま人類は、地球システムに対する人類の立ち位置と関わり方を理解しはじめています。人類はすでに、このまま欲望にまかせて進むことで人類が遭遇するであろう苦難について、知見を得はじめています。
そして不本意ながら、これから幾つかの教訓となる事態にも直面してゆくことになるかも知れません(それが人類存続の致命傷とならないことを祈るのみです)。
理性は教訓を学び、積み上げ、教育として語り継いで発展してきたものです。いま人類が得ている知見・教訓を、子供の人格形成期に当たり前のものとして伝えることが重要です。それができれば、子供の世代には今の人類とは違った、より高い理性が育まれるかも知れません。
もちろんこれまでも人類が進めてきた、この世のありようを知る“学問”、知見を広げることの大切さも伝えなければなりません。
現状、人類が持ちえない強い理性を子や孫、未来の世代が持てるよう育むこと、それこそが人類が存続するための活路となります。
人類はこれからどこへ向かい、そしてあとどれだけ存続することができるのでしょうか。未来の世代に託すため、いまできることをしましょう。
トップページに掲げた問いを、もう一度記します。
一億年後に現れる地球知的生命体は、この時代の人類をどう見、どう評価するでしょうか?
なにはともあれ、一億年後に現れる地球の知的生命体に、「人類は愚かな生命種だった」などと評価されることがあってはならない思います。